3/04/2015

[2015/03/03] No easy feat for Alton Ellis

今日は、先日のSunday Gleanerに掲載されていた、故Alton Ellisの苦悩について書かれたコラムをご紹介します。
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- Alton Ellisのロックステディやレゲエというジャンルを築くのに費やした功績の影には実は多くの苦労があった -

2015年のレゲエ月間が終わりを迎えます、ですが、その前にAlton Ellis氏がレゲエとロックステディというジャンルをジャマイカ国内そして海外で確立させるためにどれだけ苦労し、また貢献してきたかということを語らなければいけません。

彼の苦悩は彼の最初のヒットソング、Murielが録音された少し後、1957年に始まりました。この曲は、まず最初にかの名プロデューサー、Coxsone Doddによって、彼のマーケティングの目的のために録音されました、というのもそれ以前のすべての曲はDoddのサウンドシステムのためだけに録音されていたのです。スローで緩やかなドゥーワップスタイルと歌詞はEllisの友達の一人によって書かれたものでEddie Parkinsとのデュエットで歌われました。それは当時ほとんどすべての音楽ファンから口ずさまれたほどです。

"If I had a pair of wings, over the prison walls
  I'd fly until I find the one I love so well - Muriel.
And just because I love her so, that is the reason why I'd go,
  although I know that it may cost my life  - Muriel"

"もし僕に翼があったら、この刑務所の壁を越えて愛する人に会いに飛んで行くのに、Muriel
なぜってただ彼女を愛しているから それが飛んで行きたい理由だよ
それが自分の命を失うかもしれないってこともわかってるけど、Muriel"

Murielはイギリスで爆発的ヒットとなり、ほぼ3か月間ジャマイカのチャートのトップをキープしました。にも関わらずEllisは金銭的な面ではまったく潤うことがなく、トレンチタウンでのタフな生活が続いていました。

2006年のインタビューで彼はこう語りました:
「Coxoneを離れてから約18か月間、街を歩いてた。それがスカの曲をほとんどリリースしていない理由だよ。でも友達が私に音楽を続けるべきだと励まし続けてくれたんだ、それで'Alton and the Flames'っていうグループを作って、Treasure Isleに行ったんだ。ちょうどその頃、bad boyスタイルに意を反していた時で、ジャマイカにはびこり始めていたbad boyビジネスには一度も好きになれなかったよ。」

そして1960年代にDance Crasher,、Blessing of Love、Cry Tough、The Preacher、Don't trouble PeopleなどをDuke Reid率いるTreasure Islandからリリースし、ヒットを生んだのだった。1964年頃に録音されたDance Crasherは、おそらく最も人気の高い曲で、また、歌詞が当時の無政府主義者の人達に呼びかけた内容となっています。

'Don't break it up, please don't make a fuss,
Don't use a knife and take somebody else life, you'll be sorry'

"もうそのくらいにしておいて、大騒ぎするのは止めよう
ナイフを使うな、他人の人生を奪ったらだめだ、後悔するだけだよ"

彼の成功が大きくなると彼は脅しを受けるようになります。やっと成功したのに、今度は悪魔と戦わなければならないのでした。謙虚なEllisはもっとも自分が愛情を注いでいることに専念することに決めました。それはBreadking Up、I'm Still in Love With You、I'm just a guyなどの曲のように自分の気持ちを詩や音に表す、ということです。1965年にはGirl I've Got a DateがDuke Reidの元で録音され、これが彼にとって新たなロックステディのヒットとなりました。これはCoxsoneにとって気分のいい話ではなかったわけですが、彼はなんとしてでもEllisを取り戻したくElllisにイギリスツアーに連れて行くことを約束しました。
ところがツアーは行われたものの、Studio One所属のThe Soul Vendorsとシンガー達という形で行なわれたのです。Girl I've Got a DateのリズムはThe Harry J. All StarsがLiquidatorリズムを製作するのに使われました。そしてLiquidatorはアメリカでNo.1ヒットとなったStaple SingersのI'll Take You Thereで使われるのです。けれどもEllisはここから何も得ることができませんでした。

Ellisはツアーから戻り、迷いから目を覚ますことになります。Alton Ellis Sings Rock and SoulをStudio Oneから出しました。これはStudio Oneの出した作品の中でもっとも人気の高いもののひとつです。

当時のことをEllisはこう語ります。「1967年の後半にイギリスから戻ると、Coxsoneと自分の間で結ばれていた契約に関する裁判を起こすためにTreasure Isleに直行したた。そしてその頃ちょうど初めてアメリカに行ったんだ、Reidが私にしばらくの間、身を隠すようにと後押ししてくれた。だいたい2か月くらいいたかな、それから母が亡くなり、それがきっかけでジャマイカに戻ることになった。1968年の6月にジャマイカに戻った時、Joya Landisを連れて帰ったんだけど、彼女は6曲くらい録音してたよ」1973年までにEllisはジャマイカでのレゲエシーンに金銭的な希望は見込めないと気付き、もっと稼げるのではないかとイギリスに拠点を移すことにします。

彼は自分の人生の最もストレスとなっていた時期について思い出すと、
「自分のレコードは野山に落ちた火のようだった。だから当時ロンドンの街を彷徨って何か売るものがないかと探していたよ。これは自分のキャリアの中で一番イケてない時期だったし、この時だけは神が罪を犯さないように自分を見ててくれたんだろうと思う。それからSlim Smithとの曲を製作し、プロデューサーがこの曲をA&M Recordsに持って行き、そこで初めて契約を結ぶことができた」

1967年に行なわれたEllisのツアーは歴史的記録をおさめました。その頃、Ellisはジャマイカに戻ると、ちょうどPalmer Brothersは音楽ビジネスを始めたところで、Ellisに曲を作るよう契約金を支払います。
彼らのPAMA RecordsはMy Time is the Right TimeをTreasure Isleのスタジオで1968年に録音されました。PAMA Recordsはその後Jet Starという名前になりジャマイカでは主要な販売会社の中心的存在のひとつとなったのです。この動きはまたEllisを製作ビジネスに引き入れ、そのすぐあとにEllisは自身のレーベル、All-Toneを始めたのです。

イギリスで発売されたEllisのアルバムの売れ行きが、彼のレゲエアーティストとしての地位を徐々に高めて行くことになりました。しかし彼の苦悩は終わりません。販売会社が1972年にセルフプロデュースしたToo Late To Turn Back Nowの売上を持ち逃げしてしまうのです。また、Ellisはある友人にイギリスでこの曲をリリースすることを許可し、イギリスを訪れた時にその売上は支払われるという条件でした。が、Ellisが訪れると、拳を交わすだけだったのだそう。

記事原文:http://jamaica-gleaner.com/article/entertainment/20150301/no-easy-feat-alton-ellis-he-faced-many-hurdles-his-effort-help-build
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